の心はかき乱れていた。聖域への留学のことはもちろん、ヒルダが稀有という言葉まで使ってほめてくれた、自分の小宇宙のことも。
考えまいとしても、頭の中で溢れそうにぐるぐる回って、収拾がつかない。
そのまま午後の祈祷を迎えてしまったのが心配だったが、ヒルダの後方に控え、意識を集中させているうち、すうっと気持ちは落ち着いてきた。常も祈りの後は心澄み渡るものだが、まるで穏やかな波をたたえる海のごとく、平静を取り戻した心地だった。
迷いがすっかり霧散したとまで言えなくとも、心の中が整理されたような気はする。
アスガルドの民として、真摯に祈りを捧げるのは当然の役目だが、それを果たすことにより、鬱屈した心情からも解放されたのだ。
(わが神のおかげです)
はオーディーン像に向かい、感謝の言葉を捧げた。
聖域に行くことについては、じっくり考えてみようと思う。今夜にでも時間が取れれば、早速兄に相談するつもりだった。おおっぴらに言いふらすつもりはないが、親しい人くらいには話してもいいだろう。
自分にそんな大きな小宇宙があることはまだ信じられないけれど、ヒルダ様の期待にできるだけ応えられるよう、やれることからやってみよう。
そんな晴れ晴れとした気持ちで、は馬上にいた。
大好きな午後の光を感じたくて、わざとゆっくり馬を歩かせ、冷たい風にかえって背筋を伸ばす。雪の中に銀の粒が混じっているかのように、時々きら、きらりと目を刺すのすら楽しく感じられ、ひとり微笑むのだった。
そうして、森を出る直前で馬を下りると、一本の木に繋いだ。
「いい子で待っていてね」
鼻先を撫でて言い聞かせ、一人で歩き出す。と、脇の茂みがガサリと動き、雪が落ちた。
獣のうめく声がする。身体をこわばらせたの前に、大きな銀色の狼が現れた。
「ギング!」
不安から一転、顔いっぱいに笑みを咲かせる。
にギングと呼ばれた狼は、身を低くしてみせた。「乗れ」と言っているのだと気付いたは恐れることなく近付き、その背に腰掛ける。
「迎えに来てくれたの? でも今日来るなんて言ってなかったものね、偶然よね」
友人に対するように親しく語りかけるが、無論、狼は答えない。
それでもそのぴんと立った三角の耳は、ちゃんと話を聞いてくれているような気がして、は首の辺りを優しくなでさするのだった。
フェンリルは、大親友の姿を探していた。
「ギングー!」
「はーい!」
思ってもみない可愛らしいいらえに、ギョッとする。ギングは人間の言葉で返事をしないし、しかもオスだ。
見ると、探していた銀色の狼の背に、赤い外套を羽織った女の子が座っていて、屈託ない様子で大きく手を振っているのだった。
「」
フェンリルは相好を崩しかけたが、ふと表情を硬くした。ギングから下りて一緒に走ってきたに、さぐるような目を向ける。
「・・・仕事で来たのか?」
フェンリルは、イプシロン星アリオトの神闘士だ。もちろん、は神闘士へのことづてなどのために彼を訪ねることもあるけれど、そんなときにはあまり歓迎されない。
「ヒルダ様やのためだったら、神闘士やってもいいけど、それで城に行ったりするのがいやだ。人間がいっぱいいるもんな」と自分で言っている通り、彼が厭うのは神闘士としてのつとめそのものではなく、他人と接することだった。
も分かっている。そこにいつも感じる悲しさを打ち消すように、一段と明るく笑ってみせた。
「違うわ。これ、持ってきたの」
包みを見せる。それは午前中にお茶うけとしたパウンドケーキだった。余り物のようで悪い気もするけれど、少ししか食べていないから、まだ十分な量がある。
「一緒に食べようと思って。仕事の話はひとつもないのよ」
「やった!」
いっきに警戒を解き、飛び跳ねて喜ぶ仕草に、ようやく年相応の闊達さを見て、も嬉しくなった。
フェンリルは幼いころ、両親を亡くすのと同時に大人たちの裏切りを目の当たりにしてしまった。それ以来、狼たちに育てられ、すっかり人間不信になってしまったという。
そんな経緯の末、今でも人の目に触れない場所で、狼たちとだけ暮らしている。
最初は、荒唐無稽な話だと思った。だけれど彼のいでたちや、いつも側に連れている大きな銀の狼に対するときにだけほどける表情を目の当たりにすれば、も信じざるを得なかった。そして、人を近づけまいとする鋭い目つきの奥に、怯えの色を見て取ったとき、泣きたくなるほど切ない気持ちに、胸が押しつぶされそうになったものだった。
「俺、が作ったやつ、大好きだな」
口いっぱい頬張って、もごもご言いながら、そばの銀狼にも分けてやる。ギングは、フェンリルにとって肉親のような、親友のような大切な存在なのである。
ギングもおいしそうに食べているようなのが、には不思議でおかしい。
最初にお菓子を分けてあげたとき、あまりにもおいしそうに食べてくれたもので、は時々こうして持ってきてあげているのだった。
趣味のお菓子作りのおかげで、人と馴染もうとしないフェンリルとこうして隣同士に座り、話ができるのが嬉しかった。もちろん、仕事が円滑に進むという意味合いだけではなく。
「温かい飲み物も持ってくれば良かったかしら」
すきま風に、コートを着たままのは肩をちょっとすくめる。あぐらのような格好のフェンリルは頓着せず、一心に口を動かしていた。ギングは二人と向かい合う位置にいて、床に腹をつけるように伏してこれまたひたすら食べている。
ギングは狼たちのリーダーで、仲間も数多いのだが、狼の大群に囲まれていてはも怖いだろうという気遣いで、他は外に出していた。
そういうわけで、かつて大きなお屋敷だった廃墟の中に、三人(もしくは二人と一匹)で座っている。狼たちとフェンリルは、普段ここで風雪をしのいでいるのだ。
正直、こんなのは人間の暮らしではないと思った。だから城に来るように説得した。でもフェンリルは頑として首を縦に振らず、そのうちにも気付いた。フェンリルの心の傷は自分には想像もつかないほど深いものだし、この暮らしが彼にとっては一番心地いいのだと。
当人にとって何が幸せかは、他人が決めることじゃない。そんなことを、身をもって知らされた。
それでもいつかは、過去の悲しみや人間不信から解き放たれ、仲間たちと過ごして欲しいと・・・そう、は願ってやまない。
甘いお菓子を頬張りながら、フェンリルは隣に座っているを眺めては、たくさんの言葉を交わし、満足していた。こんなとき、神闘士になって良かったと本当に思う。
そもそも神闘士に選ばれたことをおとなしく受け入れたのは、ヒルダの持つ力(小宇宙というそうだ)に惹かれたからだった。決して人に馴れないギングが、ヒルダに甘えるような仕草を見せたとき、そのすごさを肌で感じた。
だが初めてワルハラ宮へ行ったとき、そこで出会った他の神闘士ときたら。
人間とは思えないほどでっかい奴だとか、変わった道具で変わった音を立てる奴だとか、同じ顔の奴が二人いたりとか。あげくの果てには、赤みがかった髪の小男に何か言われ、無性に腹が立った。意味はよく分からなかったけれど、あれは絶対に悪口だったに違いない。
うまくやれそうな相手なんていなさそうに見えた。やっぱり人間なんていやだ、ヒルダには悪いけれど神闘衣は返そうと思っていたところに、が話しかけてきてくれたのだった。
実際、フェンリルにとって、の存在は特異だった。彼女は親切で公平だった。自分にだけではなく、ギングにも優しい態度で接してくれたのだから。
今現在、ヒルダを別にすれば、唯一心を開いている人間がということになる。わざわざここに訪ねてくれるのも、しかいない。しかもこんなにおいしいお菓子を持って。
異性として意識するとはどんなことなのか、フェンリルにはよく分かってはいない。だけど確かにと一緒にいるとき、いつも張り詰めている気持ちがほっとしている。同時に全く質を異にした緊張に襲われ、息苦しくなるときもあるけれど、それすらも楽しい。
それらは、ギングと一緒にいるときですら決して味わえない感覚だった。
「、今日なんか変だな」
そんなフェンリルだからこそ、気付いたことがある。
「えっ・・・そう?」
笑顔はいつものようでいて、やっぱりいつもと違うみたいだ。
「なんか・・・うまく言えないけど・・・」
感じたままを言葉に表せれないのがもどかしい。代わりにフェンリルは手を伸ばし、の袖を軽く掴んだ。
それがには、まるで見知らぬ土地に行ってしまう自分を引き止めているような仕草に思われて、まだ話を広めるつもりはなかったのに、思わず口にしてしまう。
「あのね・・・、もしかしたら私、遠くに行くかも」
ギリッ、と奥歯を噛む音が聞こえる。服の端を掴んだ手に、ますます力がこもったことにも気付いた。
「そんなの、ダメだ」
うめくようにようやく発せられた言葉に、はぎこちなく笑って返す。
「別に一生ってわけじゃなくて・・・、ほんの数か月、短い間よ」
「でもダメだ」
子供じみた仕草でかぶりを振る。
「それって知らない人間の中に行くってことだろ。絶対、キズつくぞ」
思ってもみないことを言われて戸惑うに、フェンリルは堰を切ったように話し続ける。
「ずっと思ってたんだ。人間たちの中にいると、おまえもきっとキズつくって。そんな目に遭わせたくはないから!」
空いた手を床について、の方へ身を乗り出す。顔と顔が触れそうに接近したとき、フェンリルは少しトーンを落とした。
「なあ、もここで暮らせばいい。俺もギングも他の狼たちも、ウソは言わないし決して裏切らない、キズつけることは絶対ないから」
「フェンリル・・・」
あっけに取られて、ただ、見つめ返していた。
長い、沈黙があって。
それでも、どれだけ時間が過ぎても、には返すべき言葉を見つけられなかった。
実際に人間により傷ついて、まだそれが癒えないフェンリルに、何と答えることができたろう。
の今にも泣きそうな表情を見て、ようやくフェンリルは手を離した。
「分かってるんだ・・・は狼となんて暮らせないよな」
「そんな、私・・・」
フェンリルは膝を抱え、ギングの方を見ていた。唇を引き結んで。
「分かってるんだ」
「・・・フェンリル・・・」
互いの願いは、決して通じ合わない。悲しいことに。
けれど、きっといつか、フェンリルにも知って欲しかった。優しい人間もいることを。信頼できる友人がどんなに素晴らしいかを。
−神女になれるほどに小宇宙を磨くことができたなら、そのことに少しでも力になれるのかもしれない。
ふっと、そう思った。
皮肉にも、聖域行きに反対するフェンリルが、の背中をほんの少し、押してくれたようだった。
「あ、甘いのついてる」
いきなり、フェンリルがのほっぺをぺろりと舐めた。アイシングの白いかけらが、少しついていたらしい。ギングも寄ってきて、反対側のほっぺを同じようにぺろりと舐める。
「やだ」
真っ赤になるを、フェンリルは不思議そうに見つめている。「何か悪いことをしたか?」−そう、言いたげに。
ギングは、そのままの膝に甘え始めた。
「もう、二人とも・・・」
下心は何もない。それは分かっているから、許してあげる。
じゃれ合うようにして笑って、舌で溶けるケーキの甘さに、一刻、心苦しさも切なさも忘れた。
甘い午後を、共に過ごした。
・あとがき・
フェンリルは私も大好きキャラですが、常々ドリーム向きのキャラだなと思っています。狼に育てられた少年ですからね。愛を教えたくなっちゃうわけですよ!(怪)
恋を恋とも知らずにときめきに戸惑ってしまう・・・とかね。
個人的にはフェンリル、言葉がちょっと不自由なのかな、と思っています。狼たちの中で育ったから、ボキャブラリーが少ないんじゃないかと。アニメではかなり喋っていたのでビックリでしたが(笑)。
恋によって生まれるさまざまの感情を、言葉で言い表すことができずにもどかしくなって、ぎゅーやちゅーで表現、という感じがいいなあと妄想してしまいます。
今回は恋人ドリームではありませんが、「この遊びを恋とわらって」と同じような感じで書きました。
何の意図もなく舐めちゃうところとか。
フェンリルも、私の中でキャラが固定しているみたい。本当にね、人間と関わらないで人里離れたところで暮らせば傷つくことなんてないんですよね。大好きなギングたちと一緒なら寂しくないだろうし。
同じように、恋なんてしなければ、失恋の痛みや悲しみも味わわなくて済みますね。
・・・私、大昔、まだ「恋」の「こ」の字も知らないころ、本気でそう思っていました。傷つくのは怖いから、恋なんてしないほうがいいんだろうなあって。今思えば、何と言うか・・・可愛いですね(笑)。進め。怖がらずに、進め。(byルーザー)
広い世界に出て、傷つき悲しい思いもするだろうけれど、それ以上の何かを得る・・・ちゃんの運命は、どうやらそちらの方に向かっているようですが。
そしていずれは、フェンリルも他に信頼できる人間を見つけることができればいいなと、私も思います。
バドとか仲良くしてくれないかな(笑)。
H17.4.11
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