大海原にぽつんと浮かぶは、小型の帆船。風を受けてゆるゆると、進路は南――。
「ふぃーっ、こんなにも海が平和だと、拍子抜けだなァ」
船の中一人寝転がって、青すぎるほど青い空を眺めているこの男、名をポートガス・D・エースという。夢は海賊として名声を得ること。
共に暮らし修行してきた弟ルフィに別れを告げ、この船一隻で大海に乗り出したのは、ほんの数日前のことだ。
まずは仲間探しだが、天気は上々、進路も異常なし。目指す島までのんびりと、航海中だった。
「ん? 何だあれ」
進路から少し西にずれた位置に、何やら大きな水しぶきが見える。
エースは目を輝かせて起き上がると、猛然と船を走らせた。
シャングリラ <前編>
「おおーっ、海王類か!」
巨大な海の化け物が、吠え暴れている。よく見ると、その前に、人が一人立ちはだかっているのだ。
近付いてゆくごと様子がはっきり見えてきた。
エースには背を向けて立っている……そう、海の上に立っている(!?)、どうやら女性のようだ。見事なのはその髪、太陽の下で燃え上がりそうな赤い髪をなびかせている。
海王類は、おそらく彼女をエサと認識しているのだろう。大口開けて今にも食らいつかんとしている。
彼女の方も、きらきら光る何かをたくさん投げて応戦しているが、さすがに劣勢のようだ。
「うおりゃーー!!」
射程圏内に入ったとみるやエースは高く飛び、怪物の横っ面を殴りつけてやる。そのままちらっと海上に目線を泳がして見やると、彼女は本当に海の上に立っていて、両手に幾本ものナイフを構えていた。
体型はスレンダー、綺麗な赤の髪はきらめき、顔立ちも可愛らしい女の子――そこまで見て取り、エースの心臓は一気に跳ね上がる。
(超おれ好み! 海にこんな女の子が突っ立ってるなんて――)
グオオオオオ……!!
軟派な思考を遮るように、海王類の醜悪な咆哮が響き渡る。顔をしかめつつエースはもう一発お見舞いしてやった。
(コイツを倒したら、この子とお近づきになれるよな。お礼したいとか言われたりして……)
何を妄想しているのか、にへらっと顔面が崩れる。そこに怪物が迫ってきた。
「うおっ」
うっかり体勢を崩しかけたところにすかさず牙をむく。その化け物の目をめがけて、鋭いナイフが空を切り飛んでくる。
「グギャーッ!」
「よっしゃ!」
空中で体勢を立て直し、再び攻撃に転ずる。今度は連打だ。
援護するように尚もナイフが、怪物の急所を正確に狙って飛んでくる。
戦いの息が合ってくるのを、エースは心地良く感じていた。
「どうもありがとう。助かったわ」
「いやいや、どってことねーよ」
エースの船に二人で乗って、すっかりのびてしまった海王類の巨大な体を後にする。
近くで見ると、女の子は自分より年下、弟のルフィと同じくらいのように見える。やっぱり可愛くて、真っ赤な髪が綺麗だった。
「おれはポートガス・D・エースっていうんだ」
「エース。かっこいい名前。私はよ」
笑顔もきらきらしてるにかっこいい(名前が)と言われて、またニヤけてしまう。
二人の頭の上で、太陽が眩しく輝き、白い雲は次々形を変えてゆく。
「はいくつ?」
「私、十五歳。エースは?」
「おれは十七。弟がいるんだけど、あいつはのひとつ下になるな。……なんで一人でこんなところに?」
「エースこそ、一人で何してたの?」
船の中を見回してから、エースの自由ないでたちをまじまじと眺める。何かを探っているようだが、元々エースには隠すようなことは一つもなかった。
「おれは海賊になりたくてな。この間、育ったとこを出たばっかりなんだ」
「海賊」
驚かれても怖がられても当然だと思っていたが、の反応はそのいずれでもなかった。むしろ、ほっとしたような表情を見せて言う。
「実は、私も海賊……まだ見習いってとこかな。ちょっと前に、海賊船に乗せてもらったの」
「へえ驚いたな。まぁ確かにあのナイフ投げは、ただのお譲ちゃんにゃ出来ない芸当だ」
「でも私も小さいころからずい分練習してきたけど、実戦は全然違う。もっと強くならなきゃ」
ひたむきな瞳に、ドキッとさせられる。ただの年下の可愛い女の子ではなく、同じ立場の、仲間にもライバルにもなり得る海賊なのだと知った。
それにしても、エースも同じく小さいころから海賊目指してやってきたが、とは違い毎日が実戦続きだった。改めて特殊過ぎる環境だったものだと思う。
「で、その海賊船を一人で抜け出して来たのか」
は少し困ったような顔をした。
「その、何ていうのか、船の中のひとりが私にあんまり干渉するからうっとうしくて。気分変えようと思って黙って出てきちゃったの」
エースは彼女の履いている大きなブーツを見やる。さっき教えてもらったそれは、靴底に特殊な性質の宝石がちりばめてあり、それでは水の上に立ったり結構なスピードで進んだりも出来るというのだ。
「……でも私、甘かったわ。まだまだ海には私の力なんて及ばない。一人で出てくるんじゃなかった……」
悔しそうに唇を噛むのを見てはおられず、エースはわざと能天気に笑ってみせた。
「もう一人じゃないから大丈夫だ。気分転換したいんだろ、じゃあ今日は一日、おれと遊んで過ごさないか」
「……えっ」
「おれも今のところ急ぐ旅でもないし、夕方になったら自分の船に戻ればいいだろ。……なぁ、おれと、デートしよう」
思い切って口にしたのは、生まれて初めて使う単語。ドキドキしながら反応を見守ると、は頬をうっすらピンクに染めて、徐々に笑顔になると、ついに大きく頷いた。
「……うん。私デートって初めて。嬉しい!」
ぱあっと咲いた、大輪のひまわりみたいに。
完全にハートを射抜かれたエースだが、「おれも初めて」とは年上のプライドが邪魔をして言えないのだった。
楽しくお喋りをしながら船を進めてゆくと、やがて小さな島にたどり着いた。
無人島のようだが、緑豊かで美しく、デートにはぴったりのロケーションだ。
エースはの手を引き、二人ははしゃいで上陸をした。
魚や果物をとって昼食にし、お腹を満たした後には木陰で少し昼寝をした。
先に目が覚めたエースは、無防備にすうすう寝息を立てているの寝顔を眺め、また、の伸びやかな身体の上に木漏れ日がさまざまに織り成す模様を目で追ったりしていた。
やがてそっと手を伸ばし、つややかな赤い髪に触れる。それは炎のような鮮やかさで、エースの心を焦がすのだった。
午後は一緒に泳いでは陸に上がり、お喋りをして。また海に入って……を繰り返して過ごした。
「おー服が透けてる。いい眺め」
「エースのエッチ! ちゃんと水着着てますよーだ!」
と上に着ていた白いTシャツを脱ぎ捨ててしまう。セパレートのストライプ柄水着が、元気な彼女によく似合っていた。
海のしぶきが七色に光を弾き、の全身を彩る。
笑顔が咲き、赤い髪は太陽にも負けず輝き、何もかもが鮮烈で楽しく、笑い声と喜びに満ち満ちていた。
「、おれと組まねぇか。一緒にワンピースを目指そう」
はや太陽は西へ大きく傾いている。
島の端に並んで腰掛け、大きな夕陽を眺めながらの誘いだった。
は少し考えるふうにしてから、ゆるりと首を横に振る。
「私もまだ見習いみたいなものだし、今すぐに船長のもとを離れるわけにはいかないから……」
「……そうか、残念だな」
とは言いながらも、断られると思っていた。そもそも可愛い女の子と一緒にいたいなんて、甘い考えで渡っていける海じゃない。
エースはむしろすっきりした気分でいたのだが、はとりなすように笑いかけてくる。
「でも、エースならきっと、すごい海賊になれると思うわ」
「……ありがとよ」
夕陽のオレンジに全身包まれて、いやおうなく寂しさに襲われる。
今日という日、この楽園でのデートも、もうすぐ終わりだ。
いや、このまま終わりには、出来ない。
切羽詰った気持ちになって、エースはのやはりオレンジ色に染まった顔を覗き込んだ。
「、おれ……今日会ったばかりで、あれなんだけど」
「? どうしたの?」
不思議そうに小首をかしげる表情も、すっかり乾いたTシャツから伸びる細い腕も真っ直ぐな脚も。――全部が、いとおしい。
「惚れたんだ、お前に」
「……」
小さな口を半開きにして、は急に顔をそらしてしまった。夕陽のせいだけではなく、頬が赤くなっている。
「あの、私も、エースのこと素敵な人だって、思う……けど……」
「あーいいんだ困らせたいわけじゃねェ。ただ今のおれの気持ちを言っておきたかっただけだからよ」
笑い飛ばして、それでこの話は終わらすつもりだった。
だがが、瞳の中に深いゆらぎをたたえて、真剣な表情で見上げてくるから、エースの笑みは立ち消えた。
何か言いたげに口を開きかけるが、結局黙ってしまう。それでもエースには、なぜか分かってしまった。
これが、タイミングというものなんだと。
左手を自分の体の横について、斜めに体を傾ける。右手での頬を包み込むようにして、目を閉じた。
息遣いを感じる。汐の匂いが濃くなる。
こめかみの脈が、どんどん速くなって――。
の唇に、唇が触れたとき、全身が痺れた。
かつて味わったことのない、甘く苦しい、痺れだった。
「このままここに一泊していかねぇか? おれ真剣だから……」
「や、いやいやエース、さすがにそれは!」
迫った分はのけぞって、今にも後ろに倒れ込みそうだ。
いっそこのまま押し倒しちまおうか、なんて、青少年の内なる狼(放し飼い)が囁いている。
「――あっ!」
そのとき急に何かに気付いたらしく、が勢い良く起き上がったものだからまともに頭突きを食らい、エースの目の前に星が飛んだ。
「ああっごめんエース!」
「いっいや大丈夫……どうした……」
おでこを押さえながらエースも振り返ると、海の上を一隻の小型船が進んでくるのが見えた。真っ直ぐこちらに向かって。
「おーい、お嬢さーーん!」
だいぶ近付いてくると、男の叫び声が聞こえ、大きく手を振るさまも見て取れる。
「ヤソップー!!」
も大声で呼び返し、ぶんぶんと手を振った。
(ん? お嬢さん?)
海賊見習いがなぜそんなふうに呼ばれているのだろう。若い女の子をからかっての呼び方とはまた違った響きのように感じたのだ。
エースが不思議に思っている間にも船は島に到着し、ドレッドヘアの男がひとり上陸してきた。
「お頭が心配して、おれに探せって……おてんばもたいがいにしてくれよ」
「ご、ごめんなさい」
は慌てて立ち上がり、服のほこりを払う。さっきのシーンを見られていたわけはないが、どこか気まずそうだ。
「ところで、そこの御仁は?」
「あ、彼はエース。海で海王類に襲われたところを助けてもらったのよ」
「どうもはじめまして」
エースが立ち上がってきっちりとおじぎをすると、は少し驚いたような顔をした。自由に見えた彼の礼儀正しさが意外だったらしい。
「や、こりゃどうも」
ヤソップも警戒を解いたのか、笑顔を見せる。
「エース、あんたはお嬢さんの恩人というわけだな。どこか行くところがあるなら、送っていくが?」
「いやァご心配なく。……じゃあな、」
元のように腰を下ろして、手を振る。も笑顔で手を振り返した。
「うん。さよならエース。また会えたらいいね」
「……そうだな」
広い海、世界。明日も知れぬ命の海賊。
また会えることがあったら――それが運命というものかも知れない。
賭けの気持ちになっていた。エースは強気で笑い、更に手を振った。
船が出港してもずっと手を振ってくれているに負けないように、手を振り続けていた。
船の影が夕陽に吸い込まれてしまうまで。
あとはしんとした島にただひとり。それでもエースは楽しげに、今日一日の思い出が詰まった海岸を眺めている。
デートしたんだ、ここで。それに、キスもした。
この無人島は、楽園だったんだ。
「なんか、幸先いいな!」
大声で言い放ち、その場に寝転がる。頭の後ろの空は早くも真っ暗で、星がいくつも輝き始めていた。
目を閉じると、の姿が思い浮かぶ。ころころ変わる表情はまだ子供のようだ。すらっとした体つきと、身軽な動き。それから、何より印象的な赤い髪。
(赤髪、か)
連想せずにはいられない。昔、弟が世話になったという海賊船の船長を。
(仲間探しと並行して、赤髪の船長の情報も集めよう。挨拶しなきゃな)
とりあえず今日のところはここで休むことに決めた。
可愛い彼女を、夢にも見るように。
つづく
シャングリラ<後編>
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